
サナト・クマーラには、「偉大な犠牲」「人類の救世主」という称号がある。
その正体が「イエス・キリスト」であるらしい事は分かったが、サナト・クマーラには「種子」「創始者」「古代のもの」「地球に関連する基礎の中央の基根」などという称号もある通り、太古の昔に金星から降臨してきた者であるはずだ。
だとすれば、年代的に明らかにイエスと一致しない。
だが、イエスは次のように宣言している。
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」
(「ヨハネによる福音書」第8章58節)
ここで、私もハッキリ言っておく。
記憶はないが、アブラハムが生まれる前から、「わたしもある」。
さて、イエス・キリストが、「サナト・クマーラ」の受肉だった可能性は十分考えられる。
しかし、サナト・クマーラは「ルシファー」だったはずだ。その通り。
「蛇」や「金星」は、ルシファーの象徴であると同時に、イエス・キリストの象徴でもあるのだ。

では、イエスは魔王なのか。
詳しくは順次解説してくが、答えは「Yes」である。
ところで、イエスがいる「新エルサレム」がエノクの街であるなら、エノクはどこに行ったのだろうか。
オコツトによると、イエスは現在「ψ8」に位置し、ムー人であるエノクは「ψ9〜ψ12」の真実の人間となっている。
つまり、エノクはイエスよりも、もっと高次元の存在となっているのだ。
決して仲間外れにする訳ではないが、ここではエノクを外して考えてみる事にしよう。
「ヨハネの黙示録」によると、「新エルサレム」はイエス・キリストの花嫁として降臨するという。
イエス・キリストは新エルサレムに居る。
そうすると、イエスは「新エルサレム」と共に再臨すると考えるのが自然である。
ここで謎なのが、須弥山の頂上の兜率天にいるという、釈迦の弟子だった「弥勒」である。
「イエスと新エルサレムの再臨」は、「弥勒と須弥山の再臨」に比定できる。
少なくとも、両者は本質的に同じ事を指しているはずなのだが、弥勒とイエスは別人である。

ヨハネが幻視した、新エルサレムの「太陽のように強く輝く貴人」が、弥勒だと考えられなくもない。
しかし、弥勒は人間として再生するという。
そして、釈迦は死後、どこに行ったのだろうか。
釈迦は、イエスと同じく「ψ8」に位置している。
つまり、太陽のように強く輝く貴人が、「釈迦」とも「弥勒」とも「イエス」とも捉える事が出来るのだ。
アリオンによると、サナト・クマーラの体は強力なオーラによって、炎にしか見えないという。
炎のオーラは、不動明王をも連想させる。
不動明王の梵名は「アチャラ・ナータ(揺るぎなき守護者)」といい、「底哩三昧耶経」では「大王」「諸仏の主」と呼ばれている。
また、大日如来の化身、またはその内証(内心の決意)を表現したものだとされ、一切衆生を力ずくで救うために忿怒の姿をしているとされている。
不動明王が弥勒やイエスと共通するのは、サナト・クマーラを表現したものだからだろう。

また、不動明王の忿怒の姿は、悪魔の誘惑に打ち勝った釈迦の内証を表したものとも伝えられている。
不動明王は、仁王経の本尊「五大明王」の最高尊で、そのルーツはヒンドゥー教の破壊神「シヴァ」である。
不動明王は、「サナト・クマーラ」であり「魔王尊」であり「ルシファー」なのだ。
不動明王が鬼神で、仁王経の最高尊ということは、本質的に「仁王=不動明王」である。
仁王像が「阿」と「吽」を表現している通り、それは神社の狛犬と同じであり、スフィンクスに起源を持つ。
スフィンクスが「ルシファー」である事は既に説明したが、2体で表されているものの、本質的に「AUM」の三位一体の絶対神を意味する。
と同時に、「わたしはアルファであり、オメガである」と語った、イエス・キリストでもあるのだ。
イエス・キリストの再臨は、「不動明王の再臨」でもあるのだ。
それはまさに、この世の閻魔大王として現れる国常立尊(ルシファー)の復権そのものである。

尚、「鬼神」の話が出たついでに、王仁三郎の名言を紹介しておこう。
「善人は自分自身を救うのが精一杯だが、悪人は大悔悟すれば大きな働きをする。
仏のような人ではなく、鬼神のような人でなくては、この過渡期に大きな活動力を発揮できない」
何か、ヒントになっただろうか。
アリオンの話では、サナト・クマーラは「シャンバラの帝王」である。
では、その実像に迫ってみよう。