2010年05月28日

神を否定した釈迦と「絶対三神=人間」の謎

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一説には、釈迦は神をも否定したと言われる。
「無神論的不二一元論」が、悟りの極みなのだろう。
先の推測では、釈迦は「あの世」と「この世」を分離せず、同一のものと捉えていた。
つまり、宇宙は1つの生命体だと考えていた。
六派哲学のヴァイシェーシカ学派が説く、古代の量子論を完全に悟っていたのだ。
空間も物質も同じ素粒子で出来ている……という事を。

般若心経でいう「色即是空」である。
その物質を構成しているのが原子だが、原子を構成する原子核と電子の相対距離の比率を考えると、物質の実体は10万分の1に過ぎないという。
万物は隙間だからで、物質は完全に空間と同化しているというのだ。
その素粒子が充満する空間や、素粒子で構成された物質の集合体が宇宙である。

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『日月神示』では、このような説明がされている。

「一神説いて多神説かんのもかたわ、多神説いて一神説かんのもかたわ、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」

宇宙そのものを「神」と捉えた場合、人間も神の一部である。
一部というよりも、完全に同化した存在である。
そこに、空間、物質、人間に差はない。
神は遍在にして、総てが神なのだ。

大本から派生した生長の家の『七つの灯台の点灯者の神示』には、このように示されている。

「われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである。
だからわれは霊媒には憑らぬ。
神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ」


釈迦が、人格神の存在を説かなかった理由の1つは、そこにあるのだろう。
もう1つは、『ウパニシャッド』の「不二一元論」、即ち「梵我一如」の悟りであろう。
釈迦は、アートマン(魂)と宇宙原理「ブラフマン」との一体化を体験し、人間そのものが「神」であり、神が内在する事を完全に理解したのだ。

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サイババは、次のように語っている。

「人は神を遍在であり、全知であり、全能であると称揚する。
しかし、自分自身の中に神がいることを知らない。
神は、すべての人の中にいるのに……。
すべての人は、神的生物の細胞なのである」

「あなた方はみな、神の化身なのだ。
わたしと同じように、人間の血肉をまとった神なのだ」


釈迦が「無神論的不二一元論」に到達していたなら、敢えてそのような解説をしなかった可能性も十分考えられる。

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神と人間の関係について、『日月神示』には次のように示されている。

「神は人となりたいのぢゃ、人は神となりたいのぢゃ。
人は神のいれもの、神は人のいのち」

「神は人間、人間は神であると申してあろう。
人間の極まるところが神であるぞ。
人間は神の土台ぞ。この道理判るであろうが」

「肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。
自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。
限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ」

「自分の衣は自分の外側であるぞ。
自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にいる自分を霊とすれば、土地は体であるぞ。
さらに祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。
兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。
人類は横の自分、動、植、鉱物はさらにその外の自分であるぞ。
切り離すこと出来ん。自分のみの自分はないぞ。
縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。
故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切が喜びであるぞ」


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ここで、絶対三神と人間の関係について、私の考えを述べておきたい。

御父「ヤハウェ=魂」
御子「イエス・キリスト=肉体」
聖霊「ルーハ=霊」

イエス・キリストは肉体の象徴。
ヒンドゥー教でも、本来は右の柱に位置するヴィシュヌは、化身として人間に受肉する。
つまり、御子は「肉体」を意味し、人間は「魂」「肉体」「霊」の三位一体で構成される。
まえがきでも少し書いたが、人間は絶対三神そのものなのだ。

「絶対三神=人間」

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『日月神示』には、次のようにも示されている。

「何事も天から出て来るのぢゃ。天からとは心からのことぢゃ。
宇宙は人間の心のままと申してあろうが」


「天」を「天国」に置き換える事も出来るが、イエスも同じ事を説いている。

「神の国は、汝らの中にある」

更に、釈迦が神について説かなかった理由は、もう1つ考えられる。
当時は現代のような物質文明ではなく、人々にとって宗教は生活に密着したもので、無神論者は皆無に近い状態だったと考えられる。
様々な宗教宗派で、様々な「神」が説かれ、その解釈も多様化して細分化していった。
だからこそ、釈迦は敢えて神を否定した……そう考える事も出来る。

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『日月神示』も、神を手放すことを推奨している。

「金持つと金の地獄、理屈もつと理屈の地獄に、神に捉はれると神の地獄に落ちて苦しむぞ。
持たねばならんし、中々ぢゃなぁ」

「そなたは一度神をすてよ。
神にしがみついてゐるから、小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。
信ずれば信ずる程危ないぞ。
大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯をせよ。
神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ」


我々も、従来の神を手放す時が来た。
そうすれば、「ルシファーの国は汝らの中に在る」。
posted by ヘンリー・クライスト(夢蛇鬼王) at 13:00| Comment(0) | 【第1章】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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