
反キリストの予型でもあったマルクスは、「宗教は阿片」だと誹謗したが、この言葉を否定できる者がいるであろうか。
一方的な見方をすれば、宗教は大なり小なり洗脳であり、神や御利益を売り物にした商売である。
戒律で人を縛り付け、強要によって人の自由意志を奪い、教団教義の押し売りをして、地獄や裁きを説く宗教が、どの次元の世界と繋がっているか、考えるまでもない。
病気治しや商売繁盛・事業発展、その他、金銭的・物質的願望の成就、悩み事の解決……
宗教は基本的に、物質的な豊さや救済を求める依存心の上に立脚している。
宗教は、アラジンの「魔法のランプ」として利用されているのが現実だ。
「天は自ら助くる者を助く」という言葉があるが、アリオンも「自立」を強調している。

釈迦も同様の遺教を残している。
「弟子らよ、御身達おのおの自らを燈とし、自らを頼りとせよ。人を頼ってはならぬ」
『日月神示』には次のように書かれている。
「道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ」
「自分よくしてくれと申しているが、それは神を小遣いに思うているのぞ」
「奇蹟を求めたり、我れ善しのお陰求めたり、下級な動物のイレモノとなっているから、囚われているからだまされるのぢゃ」
「われが助かろと思ふたら助からぬのざぞ、その心われよしざぞ」

人々が宗教を求めなければ、宗教は成立しない。
よって、宗教を求める側にも問題がある。
だが、宗教は大衆心理を操作し、人々を動かす(支配する)イデオロギーであり、常に政治に利用されてきた。
政治の根底に宗教あり。
それは社会全体を動かす原動力であり、宗教が世の中を動かしていると言っても過言ではない。
突き詰めて言えば、戦争も宗教対立である。
自然を征服して物質文明を発達させ、人類滅亡を危惧させているのもキリスト教文明に他ならない。
宗教が人類の思想に影響を与え、世界を動かしている。
終末論にしても、信じる信じないは別として、確実に人類の集合無意識にインプットされ、それは現実化するのは必然的である。

本来、宗教は「道」を説くものだ。
宇宙倫理と言い換えても良い。
それによって、霊性進化や解脱、梵我一如に導くものである。
幸福というのは、その副産物に過ぎない。
だが、その幸福を説く宗教が、世界の破局の元凶となっている。
幸福を求めるのは、不幸を感じているからだ。
不幸が前提の宗教を求める時代は、もう終わりにしなければならない。
「人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ」
「大切なもの一切は、神が人間に与えてあるでないか。
人間はそれを処理するだけでよいのであるぞ」
アニミズムは、大自然に感謝を捧げる祀りであった。
宗教は、その本質から外れたものだと言っても過言ではない。

『日月神示』は、このように教えている。
「人間はどない申しても近慾だから先見えんから慾ばかり申しているが、
神は持ち切れない程の物与へて居るではないか。
幾ら貧乏だとて犬猫と桁違ふがな。それで何不足申しているのか」
「何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。
始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。
そこに神の力加はるぞ。道は感謝からぞ。
不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。
病気でないと思へ。弥栄と思へ。病気治るモト生れるぞ」
「何ごとが起こってもそなたは先ずよろこべよ。
それが苦しいことでも、かなしいことでも、喜んで迎へよ。
喜ぶ心は喜び生むぞ」
難が有ったら「有り難う」なのだ。
仏教もキリスト教もイスラム教も方便であり、その使命期間は終了した。
「七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれるともうしてあろうがな」

そして、脱・宗教を説いている。
「宗教に生きて、宗教に囚われるでないぞ」
「死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。
他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの」
「神から出た教なら他の教とも協力して共に進まねばならん。
教派や教義に囚はれるは邪の教」
「病気が治ったり運が開けたり、奇蹟が起ったりするのみをおかげと思ってはならん」
「真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ」
「信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ」
「今迄のやうな宗教は亡びると申してあろうが」
「今までの様な宗教や教の集団にしてはならんぞ」
「戒律する宗教は亡びると申してあろうが」
「さばき説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ」
「地獄説く宗教は亡びるぞ。
地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。
地獄はげしくなるぞ。
うまいこと申して人集めると、うまいこと申して人が去るのであるぞ」
「宗教いらんぞ」
「宗教は無くなって了ふぞ。まこと光るのぢゃ。
光のマコトの宗教生れるのぢゃ。その時は宗教でないぞ。心得なされよ」
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だが、宗教は必要悪であり、それなりの存在意義があったから存在したのも、また事実。
「今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるからあるのであるぞ」

では、宗教の存在意義とは何か……。
科学と宗教は常に対立してきたが、客観的に見ると、両者は一体となって地球環境を破壊してきた。
しかし、それは科学技術の発達というメリットを併せ持っている。
物質文明が、人類に与えた恩恵は計り知れない。
だが、物質文明の発達は、それ自体が目的ではない。
オコツトが言うように、科学の進歩の極みに物質的知識が精神的知識に転換し、破壊の裏に新たな創造が生まれるという事である。
私は特定の宗教を批判する事はないが、宗教そのものの消滅を望むと同
時に、宗教は必要悪だという認識を持っている。
だが、ルシファーや反キリスト、或いは悪魔を「絶対悪」として排除しようと考える世の中の宗教は、如何なものか……。

かつて、自らの教団を政府に弾圧させ、宗教破壊の型を示した反キリスト「出口王仁三郎」は、こう言い残している。
「もうすぐ宗教なんて必要のない世の中がくるんや」
「宗教はみろくの世になれば無用のものであって、
宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである」
「一般的な宗教による、家庭の円満、人格の向上、社会への奉仕といったケチ臭い考えでは信仰は得られない」
「宗教家の主張する死神死仏を葬って、蘇らせるのは活気凛々たる真実の神だ」
その真実の神とは何か……。
「神はいわゆる宗教の説くような抽象的な存在ではなく、具体的な活動力である」
これが私の言う「ルシファー」であり、その力が人間に顕現したのが「反キリスト」である。
「釈迦の悟り」について書く予定だったが、またまた前置きが長くなり過ぎたので、再びタイトルを変更せざるを得なくなった。
ちなみに、神々を否定し、ヒンドゥー教の形骸化した祭祀やカートスなど、宗教の在り方を批判した釈迦も、ルシファーの預言者であり、反キリストであった。