
さて、宇宙を二元的に捉えると、地獄に対して「天国」が存在するはずだ。
それは『日月神示』にも書かれている通り、幽界に対して「神界」が存在する。
だが、幽界が本来ないものであるなら、神界はどうなのだろう。
『日月神示』は、こう示している。
「地上人的に制限されたる感覚の範囲においては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れも弥栄である。
これを死後の世界にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。
要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。
この一貫して弥栄し、大歓喜より大大歓喜に、更に超大歓喜に向かって弥栄しつつ、永遠に生命する真相を知らねばならぬ。
しかし、天国や極楽があると思念することは、すでに無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。
本来無きものをつくり出し、一を二に分ける。
だが、分けることによって力を生み、弥栄する。
地獄無きところに天国は無い。
天国を思念するところに地獄を生ずるのである。
善を思念するが故に、悪を生み出すのである」
超大歓喜って……(笑)
そんなツッコミは要らないとして、「天国を思念するところに地獄を生ずる」という衝撃的な話……。
深く考えさせられるが、また、それによって力を生み出しているという事実。
スウェデンボルグは「天界と地獄は均衡を取っている」と言ったが、満更でもないようだ。
釈迦は、天国をも否定したという逸話があるが、天国も地獄も「無」だと認識するなら、人間は死ぬと「無」に帰する事になる。
だが、死後の世界は厳然と存在する。
何故、釈迦は死後の世界を否定、または説かなかったのだろうか。
釈迦ほどの人物であれば、分からなかったという事はないはずだ。
或いは、この世の真理についてのみ悟ったのだろうか。

真相は恐らくこうだ。
引き続き、『日月神示』から抜粋する。
「天国は霊人のみの住む処ではないぞ。
そなたたちも今住んでいるでないか。
霊人も現界に住んでいるでないか。
現界を離れて天国のみの天国はないのであるぞ。
故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理はないのぢゃ」
「地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。
地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。
地上人は常に霊界により弥栄する」
「霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である」
「物質界は、霊界の移写であり、衣であるから、霊界と現実界、また霊と体とはほとんど同じもの。
同じ形をしているのであるぞ。
故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ」
つまり、釈迦の「中道思想」は、この世とあの世を切り離して考えていなかったのだ。
「死後においても、現実界に自分がある。
それは丁度、生きている時も半分は霊界で生活しているのと同じであるぞ」
「同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ」
「皆何も天国に行くやうになってゐるではないか。
この世でも天国、あの世でも天国」

スウェデンボルグは、「霊界と人間界はコインの裏表の関係」だと述べていたが、実際に『日月神示』との共通点が多い。
「地の世界と中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、もちつもたれつであるから、三千世界であるから、地の上に禍あると、天の国にも禍ふのであるから天の国の生活は地の上に根をつけてゐるのであるから、遠くにあるものでないぞ。
同じ所にあるのであるぞ。
幽界と申すは道を外れた国のことざと知らしてあろうがな」
丹波哲郎は「あの世とこの世は地続きだ」と言っていたが、だからこそ、釈迦は死後の世界を説かなかったのだろう。
「死んでも物質界とつながりなくならん。
生きている時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。
そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。
それは正しい事ぞ、なくてならんことぞ。
物質をはなれて霊界のみの存在はないのであるぞよ。
霊人は中間の存在ぞ。
この世のことだけでこの世のこと動かんぞ。
霊界との関係によって、この世が動いている道理判らねばならん。
霊界と現界は同じであるぞ」
「地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としている、互いに入りかわって交はってゐるのぞ」
しかし、丹波氏は大霊界に逝ってしまった。
「人間の生活の半分は霊的生活、霊の生活であるぞ、肉体に食ふことあれば霊にもあり、肉体に衣、すまいあれば霊人にも同様あるぞ。
人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん」
「喜びの本体はあの世、現はれはこの世、あの世とこの世と合せて真実の世となるのぞ、あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、マコト成就せんぞ、あの世とこの世と合せ鏡」
また、地獄を意識する事で天国を想定し、天国を意識する事で地獄を生み出すという悪循環が生まれる。
「地獄説く宗教は亡びるぞ。
地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ」

釈迦は「奇跡」についても否定していたとされるが、「死後の世界」を否定していたのと同じ理由だった可能性がある。
それは、『日月神示』に示される以下のような理由である。
「死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。
奇蹟を見せ、病気を治してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。
それのみで道を説いてはならんぞ。
そんなこと位でマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。
今迄のやうな宗教は亡びると申してあろうが」
イエスは様々な奇跡を起こしたが、それのみによって改心を迫った訳ではない。

サイババも「奇跡を重視してはいけない」と戒めた上で、次のように語っている。
「奇跡は、私の名刺にすぎない。
しかし、名刺がなければ誰も、私の栄光に気づかない」
「私が物質化して与える贈り物は、名刺のようなものであり、人が危険に遭ったり手助けを必要とする時、瞬時に私に合図を送るのです。
ある時には、帰依者の健康のためとか、あるいは正しい霊性の道に進むようにするとかの、特別の理由で与えます。
私の行う事には全て意図があります」
サイババは物質化現象について、こう語っている。
「心の産物だ。私が考え、心に描くと、それがそこにあるのだ」
「私は、この物質的宇宙が創造されたのと同じ方法で、物を創造する。
これが私の創造力である」
本人も主張している通り、物理法則に反した奇跡ではなく、見えない世界がある事を教えているのだ。
サイババの物質化をトリックだという人もいるが、無闇に物資化現象を起こさない為か、確かにトリックを使っているケースもあるようだ。
しかし、空間からの物質化を目の前で目撃した日本人が何人もいる。
それによると、光る雲状のものが回転しながら物質が形成されたという。
また、高さ7センチの仏像を出したり、帰依者が望む物を出したりしており、トリックとは考えにくい。

霊覚者の知花敏彦氏も、サイババに何が欲しいか聞かれて「寿司」と答えると、すぐに巻き寿司を出してもらったらしい。
また、サイババに貰ったペンダントからアムリタ(聖蜜)が湧き出たり、サイババの写真からビブーティ(聖灰)が毎日湧き出たり、その他、様々な説明できない現象が報告されている。
そう言えば、サイババも死後の世界については殆ど語っていない。
発明家で超能力者でもあった工学博士の故・政木和三氏の人間性測定によると、サイババの精神性は8次元だという。
但し、政木氏の測定は3次元を5次元と捉えているので、8次元という事は、一般通念でいう6次元にあたる。
そして、政木氏も数々の物質化現象を起こしていた。
私もたまに手や顔に金粉が出たり、空間から小銭が出現するなどの物質化現象が起きたり、紛失した携帯電話が数時間後にポケットから出てきた事もあった。
果たして、これは悪魔の仕業だろうか……。