
私は『日月神示』を絶対視している訳ではないが、重要視はしている。
何故なら、『日月神示』を降ろした神の正体が、御父「ルシファー」だからである。
『日月神示』によれば、地獄とは幽界の陽界に相当し、「地獄」という世界も本来は実在しないという。
「霊人の中には、太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長している者もある。
要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つ受け入れて生活しているのであるが、そこにも、それ相当の歓喜があり、真実があり、生活がある。
歓喜の受け入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於いては同様である。
歓喜すればこそ、彼ら霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感じ得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。
この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と言い、斯かる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。
しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない」
これが本当なら、「ルシファーが獄に幽閉されて魔王になった」という聖書の記述は嘘だった事になる。
だが、現れとして地獄のような世界があるなら、魔王ルシファーのような存在が「在る」可能性がある。
では、続きを見てみよう。
「地獄はないのであるが、地獄的現れは、生前にも、生後にも、また死後にも有り得る。
しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない」
「この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである」
「誰でも死んでから地獄へ行かん。
地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなぁ。
曲がって世界を見るから、大取違ふから曲がった世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。
地獄無いと申してあろうがな。
このこと間違はんやうに、地獄・地獄の言葉、やめて下されよ。
言葉からモノ生むぞ。
幽界は人間の心の影が生み出したものともうしておろうがな。
心に凸凹あるから幽界のものに取りつかれて、つまらんことになるのぞ。
つまらんことひろめて亡びるぞ。
天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凸凹があるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。
その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。
幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ」

釈迦が、地獄を否定した理由に納得!
スウェデンボルグによると、死後、どの世界に定住するかは、自分と波長の合う安住の地を自ら選ぶ故に、罰として行く地獄はないという。
だが、その地獄そのものが、実体のない幽界の一部に過ぎないのだ。
それを理由に、「地獄がない事を信じれば、死後地獄に行かない」と主張する人もいるが、それはどうだろう。
地獄と呼ばれる世界の住人は、生前、地獄の存在など信じていなかったはずだ。
また、輪廻を信じないクリスチャンも転生するという事実がある。
「事実」と言っても、それはそのような現象が実際にあるという意味で、本来は実在しない世界での現象という意味である。
「在るけど無い」「無いけど在る」という、観念の迷宮なのだ。

地獄について、少し説明しておこう。
まず、フォーカスレベルで言うと、1〜7が「植物」の意識レベル、8〜14が「動物」の意識レベル、15〜21が人間の意識レベル……。
つまり、フォーカス1〜21までを3次元と捉えて良い。
フォーカス22は、人間界から発せられるマイナスのエネルギーを反射させる層だという。
フォーカス23には、この世の執着から特定の場所に留まり続ける自縛霊や、この世に未練を残して彷徨う浮遊霊など、所謂「幽霊」がいる領域である。
聖書ではしばしば、これらの幽霊に対して「サタン」という言葉が使われている。
「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。
『お前はどこから来た』
『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました』
とサタンは答えた」
(「ヨブ紀」第1章6-7節)

ほうぼうを歩きまわっていました……とは、明らかに魔王の器ではなく、浮遊霊の類である。
また、浮遊霊に対して「どこから来た」と聞く主も、明らかに全知全能ではなく、低級霊に思える。
フォーカス23には、自殺者の霊も多いと言われているが、人に殺された霊も多いと思われる。
皮肉な事に、殺人鬼のような人物は、それよりも上の世界にいる可能性が高い。
尚、幽界の最下層ともいえるこの「フォーカス23」の霊の特徴は、「孤独で孤立」していて、「言葉が威圧的」で、「人を脅す」ことを得意とし、「人間と密接」な関係にあるという事らしい。
また、「戒律」と「裁き」も幽界の特徴である。
そして、霊能者と呼ばれる人の多くが、この領域の霊とコンタクトを取っており、それを「神のお告げ」と思い込んでいるという。
このフォーカス23の「幽霊と霊能者」の関係は、「ヤハウェとモーゼ」の関係を彷彿させるのは、気のせいだろうか……。
ヤハウェは、イスラエル民族の事を「我が民」と呼んでいる。
もしかすると、モーゼがコンタクトをとっていたヤハウェの正体は、ヤコブ(別名:イスラエル)の霊だったのかも知れない。
ヤコブは天使と戦って勝った為、「イスラ(戦い)・エル(神)」という名を与えられた。
神に敵対するサタン(敵対者)とも言える。
主「バアル」と敵対するサタンが、「ヤハウェ」という見方も出来るのだ。
ヤハウェは、「戒律」と「裁き」の神である。

次の『日月神示』の説明を読んでもらいたい。
「戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思ふであろうなれど、戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、戒律する宗教は亡びると申してあろうが。
歓喜に裁きない如く、神には裁きなし。
さばき説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分をさばいてゐること、人民に罪なし」

ついでに、もう一発、ヤハウェにお見舞いしておこう。
「幽界霊も時により正しく善なることを申すなれど、それは只申すだけであるぞ。
悪人が口先だけで善を語るようなものであるぞ。
よいことを語ったとて直ちに善神と思ってはならん。
よい言葉ならば、たとへ悪神が語ってもよいではないかと申すものもあるなれど、それは理屈ぢゃ、甘ければ砂糖でなくサッカリンでもよいではないかと申すことぞ」
何故、モーゼやユダヤ人は、ヤハウェと名乗る神の正体を見破れなかったのだろうか……。
「霊的良識は、神示や神典類によって、又体験によって養はれ、又高度な科学書も参考となるものぞ、科学を馬鹿にしてはならん。
幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが六ヶ敷いぞ。
初歩のサニワの誤り易いところであり、又霊視するものの誤り易いところ、注意しなければならん。
例へば霊光の如きものも強く大きく中々サニワ出来ないぞ」

さて、フォーカス24〜26は「信念体系領域」と呼ばれ、共通の信念を持つ霊団の想念が創り出した世界が展開されている。
例えば、戦国時代のような戦場を繰り広げる世界や、傷つけ合ったり盗み合ったりする事を喜びとする、地獄のような世界である。
これは、『日月神示』がいうところの「幽界の陽界」にあたるが、彼らにとってはそこが天国なのだ。
一方、幽界には善人の霊団が展開する「陰界」もあり、教会や寺院などに特定の宗教を信じる霊人たちが集会などをしているという。
彼らも、そこを天国だと思い込んでいるらしい。
悪霊も善霊も、同じレベルの世界にいるのは何故か……。
それは、フォーカス24〜26が「信念体系領域」と呼ばれている通り、「信念」を持っている事が原因とされている。
森田健氏によると、いわゆる「悪想念」だけではなく、「信念」「目標」「経験」「努力」というものに縛られていると、フォーカス24〜26(幽界)に留まる事になるらしい。