
釈迦とイエスは、似たような人生を歩んでいる事で知られている。
釈迦は、母マーヤーが白い象の夢を見て懐妊し、釈迦族の王子として誕生。
イエスは、母マリアが天使ガブリエルから受胎を告知され、ダビデ王の子孫として誕生。
バラモン教徒だった釈迦は、29歳で出家して、宗教に属さない行者の弟子入り遍歴を繰り返し、最後に断食と瞑想によって悟りを開いた。
ユダヤ教徒だったイエスは、12歳から30歳までの18年間の記録が空白だが、インドで修行していた事が判明している。
北インドのラマ寺院に伝わる「聖イッサ伝」によると、イッサ(イエス)は14歳の時にインドに到着し、ジャイナ教徒から歓迎された。
その後、バラモン教で6年間の修行をしたが、バラモン教のカースト制度を批判し、ヒマラヤに移って仏教を学んだ。

28歳でヒマラヤを下山したイッサは、ペルシアでゾロアスター教を学び、30歳の時にパレスチナに戻ってきた。
そして、ユダヤ教エッセネ派のクムラン宗団で、「義の教師」と呼ばれる指導者になったらしい。
クムラン宗団は厳格な菜食主義で、禁欲的な共同生活をし、瞑想など仏教的な修行を行っていた。
悟りを開いた釈迦は、バラモン教のカースト制度を批判し、仏教の伝道を開始した。
最期は、沙羅双樹の下で入滅したが、一度復活して嘆く弟子を諭して死んだ。
ヨハネから洗礼を受けたイエスは、「キリスト」となり、ユダヤ教ファリサイ派の律法を批判して、「原始キリスト教」の伝道を開始。
十字架で処刑されて死亡したが3日後に復活し、使徒に最後の教えを説いて昇天した。

ちなみに、「イエス・キリスト」という呼び名は、ギリシア語の「イエースース・クリストス」の日本語表記である。
クリストスは「油を注がれた者」という意味で、ヘブライ語では「ヨシュア・マーシアハ」となる。
「メシア」の語源がこの「マーシアハ」で、「メシア=キリスト」という事になる。
エジプトで、王の即位の時に油を注ぐ事に由来し、後に「救世主」を意味する言葉となった。
言わば「キリスト」は、仏教で言えば「仏陀」のような肩書きで、人名ではない。
キリスト教徒にとっては、イエスが唯一の救世主である為、「イエス=キリスト」で、「キリスト」だけでイエスを指す言葉となっている。
だが、「キリスト」がイエスだけとは限らない。
釈迦も「キリスト」であるし、宗教家以外でも「キリスト」は多数存在する。

また、本来の意味からすれば、「油を注がれた者」は皆「キリスト」なのだ。
キリストを英語で「クライスト」と発音するが、この私も「ヘンリー・クライスト」を自称する「キリスト」なのだ。
余談が長くなってしまったが、釈迦とイエスの軌跡の類似性は何を意味するのか。
ヒンドゥー教の絶対神「ヴィシュヌ」の化身の1つ「クリシュナ」の神話と、イエスの生涯も酷似している。
クリシュナの神話は、イエスの予型、または予言だと言われているが、要は、神界で起きた事象がタイムラグを経て、時を変え、場所を変え、同様の事が周期的に何度も人間界に起きるのだ。
従って、イエスの誕生以前にも、イエスの死後にも、部分的または全体的に、イエスと同様の人生を歩んでいる人は少なくない。
特に予型論では、イスラエルの歴代の預言者たちの生涯の断片が、イエスの生涯を形成している。
これらは類魂(ソウルメイト)説で説明できるが、今回は割愛する。

さて、釈迦は修行中に、悪魔から何度も誘惑を受けた。
イエスも荒野での修行中に、サタンに何度も誘惑をされている。
食欲や権力欲などの甘い誘惑を何度も受けたが、最終的に悪魔に打ち勝って、悟りを開いたという共通点がある。
サタンは人間を甘い言葉で誘惑し、霊性進化の邪魔をして、自分と同じように堕落させようとする存在なのだ。
そのサタンの正体は、聖書学的に言えば堕天使「ルシファー」という事になる。
かつて、エデンの園でイブをそそのかし、「禁断の樹の実」を食べさせた蛇「ルシファー」である。
それらの悪魔、サタン、ルシファーの正体は、ジャイナ教の悪魔である。
つまり、外的な霊的存在ではなく、「自我」を指しているのだ。
釈迦やイエスは、「欲望」という自我との葛藤に打ち勝って、真我に目醒めたキリスト(仏陀)なのである。

現代は物質文明社会で、人間の欲深さは当時の人間の比ではない。
悪魔の力も、釈迦やイエスの時代とは比較にならない程、強大となっている。
従って、今の世の中で、釈迦やイエスのような修行で真我に目醒める事は難しい。
そんな時間的余裕すらもないのが普通だ。
だが、情報化社会であり、物質文明社会であるという事は、逆に簡単に真我に目醒める事も可能なのだ。
つまり、「善悪は表裏一体」であり、「ピンチはチャンス」という事なのだが、お分かりだろうか。
分かりにくい説明だが、適切な言葉が見付からないので、ご了承頂きたい。