2010年05月26日

ジャイナ教の堕天使「ルシファー」の正体

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バラモン教のカースト制度や形骸化した祭祀を批判して、ジャイナ教や仏教が誕生した。
ジャイナ教は、厳格な禁欲主義によって解脱する事を目的とする。
が、ジャイナ教の思想の支柱である「相対主義」は評価に値する。
相対主義とは、一方的な断定を避けて、物事を相対的に考察するという教えである。
これは生きていく上で重要な事で、例えば「善悪」も相対的に捉える必要がある。

我の強い人は一方的に断定する癖があり、相対的に判断する為には頭が柔軟でなければならない。
柔軟な思考は、「素直」な精神から生まれる。
素直とは、人の言う事を何でも聞くという意味ではなく、人の話に「聞く耳」を持つ事である。
我が強いのは「慢心」に原因があり、堕天使ルシファーと同じ運命を辿る事になる。

また、ルシファーを「堕天使」だと決めつけるのも、一方的な断定である事に注意するべきである。
つまり、一方的な視点で他人を悪く言う人は、「生命の樹」から転落する堕天使ルシファーと同じなのだ。
「死の樹」に転落すれば、ケリッポトに閉じ込められる事になる。
ケリッポトとは「貝の世界」を意味し、堕天使ルシファーが幽閉された「獄」である。
そこに閉じ込められると、どうなるのか。

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飛鳥昭雄氏は、次のように説明している。

「ケリッポトに落ちたら最後。周囲の人間の忠告は耳に入らない。
文字通り貝のように閉じこもり、自分を批判する人間を敵と見なす。
下世話な表現をすれば、依怙地状態である。
ケリッポトは虚無に満ちており、有益なものは何ひとつ生まない。
他人を攻撃することで自分を正当化しようとするが、何も得はしない。
ただただ虚しさだけが残る。
本人はそれを認めたくないため、さらに頑なになってしまう。
よほど悔い改めない限り、彼らが生命の樹に戻ることはできない」

(『失われた堕天使「ルシファー」の謎』飛鳥昭雄・三神たける著/学研)

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この理屈で言えば、即ち、ジャイナ教の「相対主義」の観点から見れば、世の中の多くの人が「堕天使ルシファー」だという事になる。
だが、他人をそのように観るのも、既に「堕天使ルシファー」なのだ。
天使長ルシファーは、慢心によって堕天使となった。
「生命の樹」の上昇は霊性進化を表し、上昇するほど真理を会得する。
天使長ルシファーは、「生命の樹」の頂点まで昇り詰めたが故に傲慢になり、「死の樹」の底まで転落。
高い所から落ちれば、それだげ衝撃も大きくなる。

実際にルシファーが堕天使になったかどうかは別として、「慢心が堕落への道」である事を、聖書は説いているのである。
「生命の樹」を上昇する為には、光の天使ルシファー(金星神ヴィーナス)の子「キューピッド」のように、純粋無垢で素直になる必要がある。
その為に、私は「ネオデジタル内観」と「還童功」をお勧めする。
故・山本健二氏が体系化した「ネオデジタル内観」のメソッドの1つに、就寝前の数分間、感情を入れずにデジタル的に1日の反省をするという訓練がある。

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また、『日月神示』には「赤子になりて出直せよ」と示されているが、道教に「還童功」という修行がある。
不思議研究所の森田健氏の本で紹介されていたが、瞑想室に5歳の頃の写真を飾って、童心に還る事を目指す修行である。
そうする事で、不老不死の世界に近づくのだそうだ。
我々は経験を積んで人格を磨き、一人前の大人になる事が人生の目標と考えているが、道教ではそうではないらしい。
「成る事を目指す自分」は「本来の自分」ではなく、皮を剥いて本来の自分に戻る修行が還童功であり、これは「自分を知る」という事にも繋がる。

過去や未来に囚われず、今この瞬間を精一杯生きていた子供に戻ること。
成長して一人前の大人になる事とは、正反対なのだ。
世の中をザッと見渡しても、尊敬できる大人はあまり見当たらない。
成長とは…大人になるとは…一人前になるとは……社会の汚濁に塗れて悪想念が渦巻き、純粋ではなくなるという事ではないだろうか。
また、既成概念や固定観念に縛られて、強い自我も持つようにもなる。
もちろん、これも一方的な見方だが、要は、「成長」と「逆成長」は紙一重であり、逆転的に解釈する事も可能である。
これは少し、「善悪逆転理論」に通底する部分がある。
いずれにしても、相対主義でなければ「善悪逆転の原理」を理解する事は出来ないだろう。

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ジャイナ教の厳格な禁欲主義は、欲望と執着をなくす荒治療だが、これも極限まで来れば、自我が薄れて「相対主義」に至る方法かも知れない。
一方的な断定はケリッポトへの転落に繋がり、善と悪が正反対に映るようになる。
そして、悪口によって他人を攻撃する事で自分を正当化する。
「善悪逆転論」を主張する私がケリッポトに落ちているのか、それとも、ヤハウェを神とし、ルシファーを悪魔にしたユダヤ人が、ケリッポトに落ちていたのか……。

仏教に於いて、「生命の樹」を上昇する方法は「八正道」の実践だが、その中に「正見」と「正語」がある。
「正見」は、読んで字の如く、正しい物の見方をする事で、「相対主義」を意味する。
我見や偏見は邪見であり、正しい世界観・人生観の欠如だと説いている。
「正語」とは、正しい言葉を使う事で、妄語・綺語・両舌・悪口を回避する事である。

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『日月神示』にも、言葉の重要性は随所に示されているが、一例を紹介しよう。

「人ほめるものと思へ、言霊幸はふぞ、それが人の言葉ぞ。
わるき言葉は言ってはならんぞ、言葉はよき事のために神が与えているのだから忘れん様にな」


逆に、悪口を言われる事は、感謝に値する事らしい。

「悪く云はれるとめぐり取って貰へるぞ、悪く云ふとめぐりつくるのぢゃ」

「めぐり」とは「カルマ」の事で、カルマを超える法則もあるのだが、物理の法則下にあるこの3次元では、「作用・反作用の法則」は厳然と働いている事は事実である。
それ故、内観などによって、ネガティヴ・カルマを作らない努力や、消す努力も必要になってくる。
が、あまり気にする必要はない。
多くの人が色々な精神修養を試みているが、殆どの場合が効率が悪く、努力の空回りで長続きしないのがオチ。
いずれ、実践的な「超人進化論」を紹介する予定である。
posted by ヘンリー・クライスト(夢蛇鬼王) at 18:18| Comment(1) | 【第1章】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ケリッポトの奥の底、2chネラーが居る所ですね。

(間違って別の所に書き込んじゃった)
Posted by v at 2012年06月13日 19:02
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